奥の細道を往く 
【元禄2年4月20日】(太陽暦6月7日)

湯本→一軒茶屋追分→黒田原→芦野(平久江家武家屋敷門構え→那須歴史探訪館→芦野城跡→三光寺→建中寺)→遊行柳→上の宮神社→泉田の一里塚→境の明神→おくの細道自然歩道→白河の関 【41km】


芭蕉は湯本を9時ころに出発して、白河の関のすぐ近くの旗宿に泊まっている。私は6時半に出発したのに、白河の関に着いときは真っ暗になっていた。芭蕉はどんな足をしていたのだと思ってしまう。


 那須湯本から漆塚へ
一軒茶屋追分


四つ川を渡る


那須連山を振り返る

BACK 那須湯本を散策

2008年4月3日

那須湯本からはかなりの下りなのでどんどん歩いて行く。一軒茶屋の追分に着いたのは
7時少し前であった。
雑木林のなかに一直線に道が続いていて、緩やかな下りなのですごくラクである。振り返ると雪をいただいた那須連峰がきれいに見える。歩きながら時々振り返ると、そのたびに那須岳がしだいに小さくなってゆく。途中、りんどう湖への道を右に分けて、さらに30分ほど行くと北条の集落に着いた。まっすぐに県道を行っても黒田原に着けるのだが、曾良日記には「湯本→小や村→漆塚→芦野」と書かれていて、「湯本ヨリ総テ山道ニテ能不知シテ難通」ともある。すごい道だったらしい。
多分、芭蕉の通った道はこっちだと見当をつけて右折した。南に下って行き四つ川を渡る。アスファルトの道なのだが、まわりはすべて田んぼで広大な那須野といった感じだ。芭蕉の頃は道がはっきりしなくて苦労したのだろうが、今はそんなことはない。
山梨子の集落の手前にある十字路を左折して東に向かう。りっぱな道なのだが広域農道という標識がたっていた。すぐに東北自動車道にかかる橋を渡って、雑木林の中に入る。穂積から喜和田という地名を過ぎて行くのだが人家はまばらで、雑木林や田畑の中の道が続く。国道4号線との交差点に着いたのは950分で、道路標識には芦野の里まで13kmと書かれていた。あと3時間以上かかりそうだ。
この国道と交わったあたりが漆塚である。地図で確認すると漆塚はもう少し北のような気もするのだが、道がはっきりしないので、この「りんどうライン」と名づけられて道を歩くしかない。振り返ると遠くに白い那須連峰がすばらしくきれいに見えた。



 黒田原から芦野へ
東北本線の踏切を渡る


しあわせ通りを行く


黒川を渡る


国道294号線に出た


芦野交差点


国道から
15分ほど行くと新幹線の高架をくぐる。すぐに十字路があって、ここを左折して黒田原の町に向かう。このあたりが上川で交差点には古い御堂がたっていた。ここから黒田原までは20分ほでである。余笹川を渡ってすぐに東北本線をくぐると黒田原の町はすぐそこである。
とたんに道はきれいに整備されたものになって、「しあわせ通り」という名前がつけられていた。街中の交差点にベンチが置かれた小公園があったので少し休憩する。休みながら地図を見ると、県道の北に平行した細い道があって、これが旧街道のような気がする。この道は塩阿久津の少し手前で県道に合流するので、この道を行くことにした。

街の中を地図と首っ引きで歩いて行く。学校付近では鉤型の交差点があったりしてわかりにくいところもあったが、なんとか西に向かうまっすぐな道に出た。この道を歩いて行ったら自然に県道に出る…つもりが途中で判らなくなった。仕方がないので途中から南に向かう農道に入って、県道に出てしまった。結局遠回りしてしまった。
塩阿久津の集落を過ぎて黒川を渡ったのは12時である。
黒川から5分ほど行ったところにY字路があって、このまま県道を行っても芦野に着くのだが、右の細い道のほうが昔の道のような気がするので、こちらを歩くことにした。本当に曲がりくねった田舎道で、うねるようなアップダウンが続く。
樹林の小さな峠を越えると左に芦野小学校があって、菖蒲川という小川を渡ると
5分ほどで国道294号線に出た。この交差点には小さな碑や石仏がたくさん置かれていた。国道を渡った左には西光寺があって、ここには古い板碑などがあるらしいのだが素通りした。すぐに郵便局がたつ交差点に出るが、この道が旧奥州街道である。
この交差点をさらに直進して「那須歴史探訪館」に向かう。ゆるやかな坂道を上って行くと、左に武家屋敷があった。町指定の文化財になっている平久江家の門で、上級武家の門構えを今に残すものである。実際に今も住居する家である。
このすぐ先を右折すると那須歴史探訪館である。せっかくなので寄っていくことにした。入館料は200円ですごく安い。入口に石柱が立っているのだが、これは勝海舟の書碑文なのだ。
お城にあるような立派な門をくぐって、歴史館に入る。でも、入口がすごくわかりにくかった。中の展示物はそんなに多くなくて、痛む足をさすりながら芦野町紹介の映像を見ていた。最後に受付の人に、芦野での芭蕉の足跡や町の見所のパンフをもらって、この館をあとにした。
歴史館の前の道を西に向かう。左にはかつて芦野城のあった城山がそびえていて、城山に登って行く階段の入口に「芦野氏陣屋跡」の石柱があった。城山には上らずにそのまま西に向かい、指導標に従って右の階段を下って三光寺に行く。聖天様として敬われる寺院だというのだが、あまり見るべきものはなかった。





 遊行柳
芦野宿を行く


建中寺


遊行柳の入口


三光寺から旧奥州街道を歩いて行く。ところどころに宿場町らしい面影を残していて、歩いていて楽しい。突然左にモダンな石造りの建物が現れた。石の美術館というのだが、時間はもう13時半になっているので外から眺めるだけにした。

町を外れたあたりに建中寺の入口があった。芦野氏の菩提寺だったというので寄って見ることにした。さすがに参道も長くて、杉並木が続いている。長い石段を上って境内に入る。立派な本堂がたっていた。
最後に遊行柳に向かう。街並みから左して橋を渡って国道に出る。この国道を横切って田んぼの中の遊歩道を行くと、田んぼの中に大きな柳の木が茂っているのが見える。これが遊行柳であった。
室町時代に遊行上人(時宗19世尊酷上人)が諸国行脚の途中、この柳の精を成仏させたという伝説があって、昔から歌枕の名所なのだ。芭蕉が尊敬した西行もこの地を訪れていて、

  道野辺に 清水流るる 柳蔭 
     しばしとてこそ
立ち止まりつれ


という句を残してしる。
石灯篭と鳥居があって、左右に二本の柳がたっている。どっちが遊行柳なんだと悩んでしまったが、両方がそうらしい。右には芭蕉の句碑がある。

  田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな

左には西行の句碑があった。
遊行柳から鳥居をくぐって奥に進むと、上の宮神社である。入口には椿の花が咲いていて、本殿にあたる祠には鞘堂がかかっていて、いかにも朽ちかけた感じであった。




 遊行柳から泉田一里塚へ
板屋の集落に入る


国道から寄居の集落に入る


泉田の一里塚


遊行柳をあとにして、国道
294号線に戻る。あとは境の明神まで、この国道をひたすら歩くのだ。でも、地図をよく見ると国道は集落をすべてバイパスしているのだが、昔の街道は集落の中を通っていたと思う。芭蕉の歩いた道をたどろうと思うと、少し遠回りになっても集落の中を通って行かなければいけない。
国道を15分ほど歩いてから右の細い道に入った。これが旧街道のはずで、板屋・蟹沢・高瀬という集落を過ぎて行く。高瀬では大きなお寺があった。
脇沢の集落の先で国道に合流してからは
40分ほど国道を歩くことになった。車がたくさん走る国道を行くのは、芭蕉の道を偲ぶすべはなく、情緒もなにもない。疲れがたまって、足も痛くなってきた。
寄居の集落に入る。すぐに右に「那須三十三所観音霊場十番」のお寺があって、少し先で右にカーブするのだが、その角には立派な門構えの屋敷があった。この付近だけは宿場の雰囲気が残っているという気がした。
寄居の集落から国道に戻って10分ほど行くと、泉田の一里塚があった。私が今歩いているのは奥羽街道だと思っていたのだが、いつの間にか陸羽街道になっていた。一里塚は移転されたり復元されたものが多いのだが、ここの一里塚は昔のものがそのまま残っているのだ。周りは広い駐車場になっていてベンチもあるので、ここで少し休憩した。時間はもう1545分になっている。白河の関には何時に着けるのか心配になってきた。




 境の明神
山中の集落


山中でみた石仏


栃木・福島の県境


一里塚から
20分ほどで山中の集落に入って、その先は山間の道を行く。
山の中から緩やかに下って小さな集落に入って、それから少し上ると境の明神であった。時間は1642分になっていた。
境の明神というのはその名の通り、下野(関東)と陸奥(みちのく)の境にたつ神社なのだ。現在の県境でもあって、手前が栃木県で向こうが福島県である。

境界を挟んで二つの神社がたっている。関東側は住吉明神で陸奥側が玉津島明神である。
まず、手前の住吉明神にお参りした。石段を上って鳥居をくぐる。社殿には覆い堂がかかっていた。
峠を越えたところには陸奥側の神社、玉津島神社がたつ。この神社から国道を挟んだ向かいにも石段があるので登ってみると、そこには白河の関跡の碑がたっていた。
白河の関というのは二つあるのだ。古代、東山道に置かれた白河の関はこれから向かうところで、今いる白河の関は近世(江戸時代)に整備された奥州道中に設けられたものなのだ。
奥羽側の神社は四脚の立派な門があって、これをくぐったところに社がある。覆い堂の中に祠が三体置かれていた。裏には歌碑がいくつかたっているのだが、どれが芭蕉の句碑かよくわからなかった。
門の壁には「おくの細道自然歩道」の地図が架けられてられている。これの先は自然歩道の指導標で道がわかりやすくなるかもしれない。(期待したのは間違いで、かえってわかりにくくなった)




 白河の関へ
夕日が私の影をつくっている


白河の関まで6.5kmの標識


奥の細道自然歩道の標識


薄暗くなった峠を越える


境の明神から
10分ほど歩いて右折する。ここから東に向かうと白河関所跡なのだ。道路標識には白河の関まで6.5kmと書かれているので、今の疲労度合いからしたら2時間くらいかかりそうだ。もう時間は17時を過ぎているので、到着は19時ということになる。また暗くなってしまう。
白河の関への道に入ると、道端に「奥の細道」と書かれた標石があるのに気づいた。これを辿ると間違いなく白河の関に行けそうである。交差点から20分ほど行くと字路があって、右に奥の細道の標石があった。この位置が微妙で、直進するのか右折するのか判断に迷ってしまう。地図で確認すると、県道を直進すると白河の関よりも2kmほど北に出てしまうので、引き返さなければいかなくなる。右の道を行くことにした。
5分ほど行くと奥の細道の標石があったので、この道で間違いないことがわかった。
ほとんど車も通らない山道を行く。途中、何度かわかりにくい分岐があって、その都度、磁石と地図をつき合わせて方角を確認する。そんなことをしながら歩いているうちに、あっというまに日が暮れてしまった。
白河の関への広い道に出たのは1822分、そこには「白河の関まで1.6km」の指導標がたっていた。真っ暗な中を懐中電灯をつけて歩いて行く。
社川を渡って広い県道にでると、正面に白河の関があった。その前に夜食を買い出したいので店を探したが、コンビニすら見当たらない。仕方がないので自販機でジュースだけ買って、白河の関の中に入っていった。ガイドブックによると、白河の関の中には東屋があるようなので、そこにテントを張るつもりなのだ。

懐中電灯で照らしながら境内を歩いて、東屋を見つけた。広くてテントを張るにはぴったりであった。助かったと思った。
テントの中に落ち着いたのは19時半であった。41kmを歩いたわりには意外と早く着くことができた。でも、疲れた。


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