白河の関から県道を北に向かって歩くと集落に入る。バス停には旗宿上とかかれていた。芭蕉が泊まったのは旗宿というところだから、この宿場で泊まったのだろうか。
集落を抜けると、左に大きな桜の木がある。これが「庄司戻しの桜」であった。
この桜の木には源義経の忠臣であった佐藤継信・忠信の兄弟にまつわる伝説があるのだ。平泉から鎌倉に馳せつける義経に息子の佐藤継信・忠信を従わせた信夫の庄司佐藤基治は、「二人が忠臣であったら、この桜の杖は根付くだろう」と携えていた桜の杖をこの地に突き刺したのだ。佐藤継信・忠信は義経の身代わりとなって二人とも討ち死にしてしまうのだが、基治のいうとおりに、杖は立派な桜の木になったというわけである。
芭蕉は義経の大ファンだったようで、忠臣であった佐藤継信・忠信にもかなり心を寄せていたらしい。この先、義経や佐藤兄弟にかかわる史跡を熱心に訪れることになる。
庄司戻しの桜のすぐ先にY字路があって、ここを右に行く。左の道は白河市へ近道なのだが、芭蕉は「関山」という山を越えているのだ。二万五千分の一の地図には登山道が書かれていないのだが、ガイドブックを読むと、ふもとの神社からまっすぐに山に登って行く道があるらしい。どんな道なのか不安もあるがともかく行ってみることにする。
Y字路から10分ほど行くと「関山入口」という指導標がたっていた。入口はわかりにくいとガイドブックに書いてあったのだが、これなら道も整備されていそうである。
この入口からすぐに社川を渡って、小さな集落に入って行く。行く手に山が迫ってくる。地図によると標高は518mなのでたいしたことはないのだが、下から見上げるといかにも高く感じてしまう。
集落から山間の小さな峠を越えて内松の集落に入る。細かな道が錯綜しているのだが、指導標のおかげで迷うことなく神社の前に着くことができた。鳥居の前の石柱には「村社稲荷神社」と刻まれていた。登山道はこの神社の後ろにあるはずなので、杉林の中の石段を登って社殿の前に立つ。でも、登山道が見つからない。神社の後、一段上がったところに車道が見えるので強引に登ったら、そこに登山口があった。神社には入らずにそのまま車道を進めばよかったのだ。
登山口には六地蔵がたっていた。
鬱蒼とした杉林の中を登って行く。これはもう登山そのものである。急な斜面をジグザグに登って行くと、朽ちかけた「関山山頂
満願寺」という指導標があった。でも、登山路としては迷う心配のない道で、登山口から30分ほどで林道終点に飛び出した。そこには石仏と将棋の駒を細長くしたような「下馬碑」があった。この下馬碑は永承6年(1052)に」源頼義が寄進したものだという。
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