BACK 高久から湯本へ
2008年4月3日
5時半に目を覚まして、テントの撤収をした。今日は白河の関までの41kmを歩かなければいけないので早起きしたのだ。黒羽から奥州街道をそのまま北上してくれていたらラクだったのに、芭蕉が殺生石なんか見たがるものだから、すごい遠回りだ…ブツブツ。
41kmということは、休憩なしで歩いても10時間以上かかってしまのに、重いザックを背負った私だったら12時間以上かかりそうである。でも、芭蕉が那須湯本を出発したのは9時頃だったらしい。芭蕉ってどんなに早足だったのだと思ってしまう。
芭蕉が旅をしたこの当時、成人男子の一日の歩行距離は10里が一般的だったらしい。でも、私が芭蕉の健脚ぶりに驚いてしまうのは、すさまじく足が速かったということなのだ。芭蕉は次の宿泊地にたどりつくために歩いているのではなくて、歌枕の地を訪ねたり、名所・旧跡を巡ることを目的にしている。その地ではただ通過するわけではなくて、俳人として歌を詠んだり、思索をめぐらしたりするだろう。そういう時間というのは思った以上にかかるもので、私の今回の旅でも30分から1時間はかけしまうのだ。そんな時間を考えると、芭蕉は1時間6kmくらいの速さで歩いたのではないかと思ってしまうのだ。
芭蕉は伊賀上野の出身だったことから忍者であったという説がある。本当かもしれないと思ってしまうのだ。
ともかく、今日も日が暮れるまで歩くことになりそうなので、早立ちするしかない。
6時にザックを背負ったが、まず殺生石を見に行く。
駐車場から遊歩道を歩いて行く。火山性の荒涼とした岩礫帯が広がっているのだが、そこには雪がたくさん残っていた。
歩いて行くと「盲蛇岩」があった。この殺生河原にあるのは殺生石だけではないのだ。昔、めくらの蛇を助けたことで湯の花のつくりかたを教わったという言い伝えがある。この石の形はめくらの蛇に似ているのだというのだが、どう眺めてもただの岩にしか見えなかった。
遊歩道を歩いて行くとたくさんの石地蔵がたっている。でも、よく見るとこのお地蔵様は最近たてられたもののようである。
遊歩道のつきあたりに広場があって、柵の奥にあるのが殺生石である。芭蕉はこの巨石の周りにはたくさんの虫の死骸が重なり合っていたと書いているのだが、今日は雪で覆いつくされている。芭蕉の句碑もたっていた。
いしの香や なつ草あかく 露あつし
この句は奥の細道には載っていないのだが、曾良日記に記されたものである。
殺生石の付近では硫化水素の毒ガスが噴出しているため、九尾の狐の呪いという伝説が生まれたのだが、今は有毒ガスの噴出量もずいぶん少なくなったらしい。
殺生石の前から左の遊歩道を行く。この山の斜面につけられた道は那須温泉神社への近道なのだ。
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