津軽三十三観音霊場をめぐる旅

 三柱神社参道をゆく

2017年9月21日

13番札所は、太宰治の金木の町の北にある。国道339号線を北に向かい、桜がきれいな芦野公園を過ぎて、さらに北上して行くと、津軽鉄道の川倉駅に向かう細い道がある。角に「第十三番川倉観音集印所の看板があった。(帰りにここに寄ったらいいのだ。)
この細い道を駅に向かって走ってゆくと、途中に「村社三柱神社」の石柱がたっていた。上の横木だけが赤い鳥居もあって、三柱神社と書かれた額も掲げられている。この境内に札所はあるのだ。
入り口の鳥居から本堂まではけっこう距離があるのだ。
三柱神社の額がかかった最初の鳥居をくぐると、次の赤い鳥居には額の代わりに力士のような像が置かれている。そして次の鳥居には鬼がいた。珍しいつくりの鳥居なのだ。




 川倉観音堂に参拝

舗装された参道をどんどん歩いてゆくと拝殿が見えてきた。三柱神社の社殿である。この参道の右に黒い門があって、その奥に「川倉観音堂」の看板が下がったお堂があった。玄関上には「十三番聖観音」という額も掲げられていた。
この中に入ると、きちんと畳敷きになっていて、ろうそく線香をあげて、正座して読経することができた。
観音堂のお参りを終えたので、三柱神社にもちゃんと参拝することにした。
参拝を終えて境内を散策したら、津軽民謡碑がたっていた。津軽じょんがら節の歌詞が刻まれていた。郷土民謡家が建立したものである。




 川倉芦野堂について

この川倉観音堂は、延享年中(1744-48)には、まだ三十三所に入っていない。十三番に加えられたのは、寛延年中(1748-51)からである。
だが堂宇創建はそれより古く、寛文8年(1668)、あるいは寛文12年(1672)のことと伝わっている。
本尊は観世音菩薩のほか、阿弥陀如来、薬師如来の合わせて3体が安置されていた。安政2年(1655)には、飛竜権現を加えて「飛竜三社大権現」と改称し、明治に至っている。
明治初年の神仏分離令により、川倉村も飛竜三社大権現を三柱神社とし、金木八幡宮へ合祀せよ―との政府通達があった。信者たちはやむなく合社に従ったが、仏像は渡そうとはしなかった。役人から隠し、持ち歩いたというが、とうとう行方不明になって、いまもその所在は分からない。
昭和に入って、観音霊場に観音堂がないのはどうしたものか―と、信者たちから堂宇再建の話が持ち上がった。当時、金木では「池屋(高橋家)」と「山源(津島家)」(太宰治の実家)が大地主として権勢を競っていた。その両家が観音堂再建に乗り出し、三柱神社手前の右横に完成した。
神社の地名と芦野湖にちなんで、「川倉芦野堂」と命名されている。また、不明となった仏像の代わりとして、「山源」の津島イツさん(津島文治氏祖母)が寄進した。
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