津軽三十三観音霊場をめぐる旅

 急な石段を上って観音堂へ

2017年9月20日

国道101号線を走って鯵ヶ沢に着く。日本海が広がっていた。
日本海を眺めながら走ってゆくと陸奥赤石駅があって、さらに10kmほど走ると「道の駅ふかうら」に着いた。15時半になっていた。もう深浦に着いたのかと思ったら、この道の駅から深浦市街までは10kmほどもあるのだ。
このころは雨も上がって日が差し始めていた。
道の駅から6kmほど走ると追良瀬駅があって、その少し先で追良瀬川にぶつかる。この川の少し手前で左折して、追良瀬川沿って東に車を走らせる。
9番札所の鳥居の前に着いたのは16時であった。
すぐに観音堂を目指す。参道入り口には立派な鳥居があって、この左右に観音石像や納め札のお堂が並んでいた。
鳥居をくぐると山道になった。林の中の古い石畳のような道をたどると、赤い手すりのある急な石段が現れた。
これはけっこうきつい上りで、息を切らせて5分ほど急登を続けると、ようやく舞台造りのお堂が見えてきた。大悲閣というらしいのだが、とんでもなく立派なお堂である。






 観音堂に参拝
参道はお堂の右側に上り着く。そこには赤い幟や小さな社がたくさん置かれていた。お堂の後ろは岩窟のようだった。ここから舞台に上がって、正面にまわって読経した。お堂の額には「見入山観音堂」と書かれていた。
急な石段を下って、参道入り口に戻ったのは16時22分であった。
さて、御朱印は…と思ったら、これは10番、深浦の円覚寺でもらえるのだ。深浦は明日…と思っていたのだが、今日中に参拝してしまいたくなった。


 見入山観音堂について

見入山観音堂は、室町時代初期の康永3年(1344年)に創建されたと伝えられる。明治初年まで古い棟札が残っていて、それを伝える記録があったという。

 人王九十七代光明帝御宇 康永3甲申年8月22日建立
 大壇那藤原氏家 大和国宇多郡神願寺住僧 行円 沙門木食万良九拝


藩政時代には、深浦円覚寺が寺務を執って山伏の修験場に充て、「飛び地境内」と呼んでいた。見入山観音はこの縁から、今でも円覚寺が納経所となっている。
津軽霊場としては、最初十四番であり、後に九番に変わっている。「寛延巡礼記」によると、本尊は聖観音であったが、天明6年(1786)以前から如意輪観音になったという。
小堂宇には毘沙門天、吉祥天、愛染明王、弁財天、不動明王、薬師如来、十二神将、地蔵菩薩などが祭られている。
明治初年の神仏分離令でも、見入山観音は純然たる仏堂であり、何の影響を受けることもなかったようだ。ただ、大正11年巡礼者たちの灯明の不始末から火災が起き、観音堂を全焼している。しかし、大正13年には再建し、従前通りの舞台造りの様式が守られている。

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