津軽三十三観音霊場をめぐる旅

 7番札所の参拝する

2017年9月20日

県道に戻って、五能線の鳴沢駅を目指す。駅の手前で左折して、踏切を渡って再び左折すると、北浮田の集落に入る。ここに7番札所がある。
札所の入り口には赤い鳥居がたっていて、そこには高倉神社と書かれていた。6番札所も高倉神社だったのだが…。
神社は林の中にあって、二つのお堂があった。左が高倉神社で、拝殿の後ろには赤い社がある。これが本殿だ。
右にある少し小さいお堂が7番札所北浮田弘誓閣である。
このお堂の前で読経した。
神社から少し引き返したところに納経所の佐藤商店がある。ここで御朱印を押した。

 北浮田弘誓閣について

「寛延巡礼記」によれば、北浮田の観音堂は天和2年(1689)浮田村庄屋・惣兵衛が創建したという。
寛延4年(1751)には堂宇こそ三尺四面と小さいながら、茅葺の神楽堂が併設されていたという。
北浮田が七番霊場となったのは、寛延年間(1748-51)からである。それまでの七番は弘前報恩寺にある護摩堂観音。当時、西浜に置かれた霊場は十三番・日照田、十四番追良瀬、十五番深浦の三カ所だけ。当時は十二番・十腰内から日照田へと回っていたという。
北浮田の観世音菩薩には万病を治す霊験があったと伝えられている。今もある大きなイチョウの木のそばに、清水がコンコンとわき出ていたという。この清水は万病に効いたため、津軽はもとより南部や北海道からも清水をくみに訪れていた。乳の出ない女性が飲めば、たちどころに乳が出るようになり、目の悪い人が清水で目を洗えば病気が治ったという。しかし、今はその霊泉も地上にわき出ていた痕跡はない。
明治3年、神仏分離令により当時「飛竜宮」と呼ばれていた北浮田観音堂は廃社となり高倉神社になった。以来、昭和40年代まで観音堂は存在せず、高倉宮が七番札所として巡拝を受けてきた。
昭和41年、地区民の手で観音堂が再建された。久渡寺先代住職・高坂智普師が「弘誓閣」と名付け、聖観世音木像も久渡寺から譲り受けている。地域に残る篤(あつ)い観音信仰が悲願を実現したのである。

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