奥の細道をゆく 
【元禄2年4月29日(太陽暦6月16日)】

軒の栗→乙字ヶ滝→男滝橋→八流の滝→芭蕉の辻→守山宿(村田神社)→金山橋→郡山  【馬で28km】

この日芭蕉は、須賀川で世話になった等躬に馬をつけてもらって、遠回りになるが乙字ヶ滝を見物してから郡山まで行ったのだ。須賀川を出発したのは11時頃と遅くて、郡山着は19時頃だったらしい。


 乙字ヶ滝
乙字ヶ滝への道


お堂がたっている


芭蕉の句碑


記念写真用の顔出し

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2008年4月6日

「軒の栗」をみることで須賀川市街の散策を終えて、乙字ヶ滝をめざすことにする。大通りを南に
10分ほど歩いて、左折する。地図とにらめっこして、最短の道を選んで歩いて行く。本当に細い田舎道もあったが、40分ほどで国道に合流した。これを20分ほど行くと、左に乙字ヶ滝の入口がある。
阿武隈川に向かって下って行き、赤い橋を渡った左が乙字ヶ滝の公園であった。
広場にベンチがあったので、ここにザックを置いて散策に出かけた。林の中に入ると滝見不動堂がある。大同3年(808)弘法大師によって開かれたというのだが、本当だろうか。
この御堂の横から乙字ヶ滝を展望することができる。乙字ヶ滝というのは阿武隈川にある岩の段差によってできたもので、落差は
4mほどしかないのだが滝の幅は100mほどもあるのだ。それが大きく湾曲して乙字になっていることから名前がついたのだ。
不動堂の横には芭蕉の句碑がたっている。

  五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉

この句は歴史民俗博物館にあったものと同じなのだが、漢字の使い方が違う。こっちのほうが曾良日記に載っているものである。
不動堂からさらに奥に進むと、さっき軒の栗庭園にあった稚拙な像に似た芭蕉と曾良の像があった。
この先は行き止まりなのだが、川沿いにつけられた柵から見下ろすと、踏み跡があって阿武隈川に下れそうである。柵を乗り越えていってみることにした。急な斜面をトラバースして行くのだが、岩場が濡れてすごく滑りやすくなっている。慎重に下って川岸に立った。
川面と同じ高さから見上げる乙字ヶ滝は迫力があってすばらしい。芭蕉がここを訪れたときは連日の雨で増水していたというから、一層迫力があったろうと思う。(曾良日記によると、須賀川出発は前日の予定だったのだが、増水で阿武隈川を渡ることができないため、この日に延期したのだという。)

芭蕉はこの乙字ヶ滝から須賀川に戻ることなく郡山に向かったのだ。私もそれと同じルートをたどる。



 八流の滝から芭蕉の辻へ
男滝橋


踏切を渡る


八流の滝


国道に戻って、少し引き返してから右折する。
15分ほど行くと阿武隈川にかかる男滝橋を渡った。男滝という滝が近くにあるのかと、橋の上で見回してしまった。
橋の先でJR東北本線の踏切を渡ってすぐに左折して、のどかな田舎道に入る。この角には石碑がたくさんたっていた。私は道端の古い石仏や石碑が好きなのだ。
500mほど行ってから、右の細い道に入って丘陵を越えた。これが近道で、昔の道だと思ったのだ。緩やかに下って小作田の集落に入る。細い路地を北進してJRの線路を渡ると阿武隈川の土手につきあたった。ここには自転車専用道路が設けられているので、これを歩いて行く。今日はすばらしい天気で、土手にはたくさんのツクシが生えていた。
のどかな田舎道を行くと、八流の滝という指導標があった。私は滝が大好きなのでもちろん寄って行く。田んぼの細道を指導標に従って歩いて行くと、滝が見えてきた。そんなに大きな滝ではないのだが、けっこう立派なものであった。案内板がたっていて、それによると芭蕉もこの滝を訪れたと書いてある。おくの細道にも曾良日記も記載はないのだが…。

滝からは来た道を引き返すのかと思ったら、指導標があって滝の横につけられた階段をさしている。方向としてはあっているのでこの道を行ってみることにした。滝の上に出ると、流れに沿って遊歩道が続き、さらに林の中を緩やかに登って丘陵を越すと、広い道に出た。そこが芭蕉の辻であった。
丘の斜面に石仏や碑がたっていて、案内板には「須賀川を発った芭蕉と曾良は石河の滝(乙字ヶ滝)、八流の滝を訪ね、ここ芭蕉の辻を通り、守山宿に向かった」と書いてあった。





 田村神社から郡山へ
学校の横を行く


小さな公園があった


田村神社入口




金山橋を渡る


山道のような林の中の道を行き、丘陵から県道に出て少し北に歩くと右に学校があった。ここで再び田舎道に入って、畑や田んぼの広がる中を歩いて行く。道には緩やかな起伏があるのだが単調な田舎道で、目印になるものがないので、今どのあたりにいるのかだんだんわからなくなってくる。こういうときに目印になるのが送電線で、二万五千分の一にはしっかり書かれているので、どこにいるのかがわかる。

1412分、JRの踏切を渡った。これはJR水郡線の線路なのだ。
すぐに小川を渡ると国道49号線に合流した。この角には狭いけど整備された公園があって、ベンチもあるので休憩。14時半になっていた。
ここからは国道をひたすら歩くのだが、できるだけバイパスされた集落を通るようにした。10分ほど国道を歩いたところで左に入って守山の集落に入る。15分ほどで守山集落を抜けて国道に合流すると、左に田村神社があった。
芭蕉は須賀川の駅長であった等躬から馬を貸してもらって、ここまで馬でやってきたのだ。紹介状をもらってきていたので、守山宿ではけっこう歓迎してもらって、この宿場の名刹大元明王に参拝して寺宝を見せてもらってりしている。この大元明王というのが、今の田村神社である。もちろん寄って行くことにした。
国道から民家の間の細い道を行き、長い石段を上ると境内にはお寺の本堂のような建物がたっていた。でも、正面の額にはちゃんと田村神社とかかれていて、大元帥という額もあった。南側には大きな四脚門がある。明治以前は神仏習合でお寺と神社は一緒だったから、その名残なのかもしれない。
境内には延宝8年(1680)検地灯篭があった。
国道に戻って、郡山を目指す。ここからは国道をひたすら歩く。
谷田川を大善寺橋で渡ったのは16時、その500mほど先で宝蔵の集落に入って、再び国道に合流すると阿武隈川にかかる金山橋は近い。
車の通行量がめちゃくちゃに多い金山橋を渡る。いよいよ郡山の市街地に入る。
新幹線の高架をくぐってから右折して郡山駅に向かう。真っ直ぐ行くと国道4号線なのだが、裏道を歩くのだ。家がたてこんできて、駅はもうすぐだと最後のがんばりで歩き続けるのだが、遠かった。右折したところから駅までは3kmほどもあるのだ。
JR東北本線の踏み切りを渡ってから右の道に入ると線路に沿った道になり、次第に高いビルが目立つようになった。ようやく駅前広場に着いたのは1725分である。
今回の旅は、いったんこれで打ち切る。
芭蕉は郡山に泊まったのだが、翌日は福島まで49kmも歩いているのだ。重いザックを背負って49kmを歩くのは私にはきつすぎる。出直して、空身で歩くことにした。


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