奥の細道をゆく 
【元禄2年3月29日】(太陽暦5月18日)

小山→小山評定跡→小山城址→天翁院→喜沢の馬頭観音碑→下野国庁跡→大神神社(室の八島)→壬生城跡→金売り吉次の墓→例幣使街道→鹿沼  【41km】

芭蕉は間々田を8時頃出発して、街道からは外れた室の八島に立ち寄っている。芭蕉が奥の細道で最初に訪れた歌枕の地である。この日は鹿沼に泊まったので、私もがんばって鹿沼まで歩いた。


 小山宿
まちの駅思季彩館


小山城跡の入口


堀跡


天翁院

BACK 間々田から小山へ

2008329日(土)

仙台発東京行きの深夜バスに乗った。予定どおり東京駅に着いたのは5時、東京発515分の京浜東北線に乗って赤羽で宇都宮線に乗換え、小山に着いたのは659分であった。
前回の歩きでは靴がアスファルト歩行に耐えられなかったので今回は皮の靴にしたし、ザックの荷物も徹底的に削ってかなり軽くした。それでもテントなどの野営道具一式をつめているので、20kgほどにはなってしまったのだが。

今日は青空が広がるすばらしい天気である。
小山駅から駅前通りをまっすぐに西に向かう。奥の細道とは関係ないのだが、小山の史跡を見て行こうと思うのだ。私はこの小山市に4年住んでいたので、昔を懐かしみながら少し歩いてみたいのだ。
小山市役所の構内に「小山評定跡」がある。関が原の戦いに先立って、会津の上杉討伐のために家康は豊臣譜代の将兵を引き連れて小山までやってきたところ、石田光成が兵を挙げたという報告を受ける。そこで、その対応の評定を開いたのがこの地である。このとき秀吉子飼の武将だった福島正則が一番に協力を誓い、この上杉討伐隊がそのまま関が原の戦いに臨むことになるのだ。この評定で山内一豊は自分の城であった浜松城を家康にそのまま差し出すという申し出を行い、この功によって、関が原では大した軍功がなかったにもかかわらず土佐一国の領主になるのである。
小山市役所からさらに西に向かうと右に小山城(祇園城)跡がある。
15世紀頃に小山氏が築いた城だが、天正3年(1515)北条氏に攻め滅ぼされてしまう。江戸開府後に家康の謀臣の本多正純が城主となるが、元和5年(1619)に宇都宮に移ってその後は廃城になってしまうのだ。
この城の石垣の上に立つと思川を眺めることができた。城跡は今は公園として整備されているが堀跡などが残っていて、その奥には大銀杏がそびえている。高さ
15mもの古木で、落城の際に姫君が井戸に身を投げたのだが、そのとき目印に刺した銀杏が大きくなったという伝説がある。
城から国道に向かって歩いて行くと大きなお寺があった。天翁院というお寺で、その参道の右にはコウヤマキの古木がそびえたっていた。本堂はまだ新しい白木で、最近建てたばかりのようだ。




 小山郊外
東京から79km地点


JRの線路を陸橋で渡る


喜沢の交差点、交番がある


国道
4号線を行くと、東京からの距離が書かれた標識があった。日本の主要国道には1km毎にこんな標識がたてられているのだ。東京から79kmとなっていた。
国道4号線を行き、JR線を陸橋で渡ると喜沢の分岐に着く。ここで国道4号線を離れて壬生に向かうのだ。喜沢の分岐には馬頭観音があるというので探してみた。ここの交差点は二重になっていて、奥の方の分岐に三つの碑が立っていた。真ん中の碑に馬頭観音の文字が刻まれている。これを探すために交差点をうろうろしていたら、交番のお巡りさんがいかにも不審そうに私を見ていた。
このあたりは小山で仕事をしていたときに何度も通っていて、道はよく知っているのだが車で通るのと歩くのとで大違いで、いろいろ新しい発見があるのだ。
思川に向かって下って行くと日光街道西一里塚があった。ちっとも知らなかった。
さらに「小山ゴルフ場」の前では構内に案内板がたっているのが見えた。中に入ってこの看板を読んだら「小山ゴルフ場内古墳群」とかかれている。五世紀後半の古墳で形は帆立貝式だという。石柱の後ろに小さな盛り上がりがあるのだがホタテ貝の形かはわからなかった。一応ゴルフ場の構内なので、写真を撮ってすぐに外に出た。

壬生まで9kmの道路標識を過ぎ、明るい日差しを浴びながら歩いて行くと道端に石仏が4体並んでたっている。古い街道の面影が残っているのだ。
思川の支流を渡ると栃木市へ向かう道が分岐する。この先は県道を歩いてゆけばいいのだが、思川の土手に美しい菜の花が咲いているので、土手を歩いて行くことにした。
15分ほど行ったところで思川を渡って古国府の集落に入る。



 下野国庁跡
国庁前殿から



関東自然歩道の指導標に従って行く


芭蕉が目指したのは室の八島なのだが、私はその前に下野国庁跡に立ち寄ろうと思っているのだ。

大宝律令(701)によって律令国家体制が確立されたが、その地方統治の中核が国府である。国府の中心にあったのが国庁で、下野国庁は昭和54年の発掘調査によってその全貌が明らかになったのだ。今は遺跡公園として整備されていて建物も復元されている。この遺跡に隣接して下野国庁跡資料館も建てられているのだ。
でも、この史跡は田んぼの中にあって、指導標もしっかりしていないので迷ってしまった。ようやくたどり着いたのは
10時半頃であった。資料館を見学したあと少し休憩させてもらった。(展示はそんなに多くないのだ。)遺跡公園には国庁の前殿が復元されていて、これをじっくりと見学した。
遺跡の敷地にある宮野辺神社に手を合わせてから、室の八島に向かった。
ここからは「関東ふれあいの道自然歩道」を行く。道路標識が完備されているので、もう迷う心配はない。




 室の八島
大神神社裏参道入口


大神神社

室の八島


田んぼの中をのんびりと歩い行く。行く手にこんもりとした杜が見えてくると、これが室の八島のある大神神社であった。

芭蕉が奥の細道の旅で初めて訪れた歌枕の地である。
大神神社というのは奈良の山辺の道にある大社の名前と同じではないかと思ったら、まさしくその大和大神神社を分霊したものであった。室の八島は大神神社境内にあって、池から絶えず水蒸気が立ち昇っていたため、煙を詠む歌枕の地だったのだ。ところが、江戸の頃はすでに池の水は干上がってしまって煙が立ち昇ることはなくなっていたようで、芭蕉に同行した曾良も「名のみ也けりとも…」と書き記している。
今、境内には池が復元されていて、その中に祠を祀った八つの島が浮かんでいる。もちろん歌に詠まれたような煙が立ち昇ることはないのだが。せっかくなのでこの八島を巡ってみた。入り口には芭蕉の句碑がたっている。

  糸遊に 結びつきたる けふりかな

でも、この句は奥の細道本文にはなくて、曾良の俳諧書留にあるものなのだ。
神社の境内には古い句碑があちこちに残っていて、歌枕の地であることがわかる。

  いかでかは 思いありとも 知らすべき 
     室の八嶋のけぶりならでは(藤原実方)

  下野や 室の八嶋に 立つけぶり
   思いありとも 今こそは知れ(詠み人知らず)

  絶えず焚く 室の八嶋の 煙にも
   なを立ち勝る 恋もするかな(源 宗宇)

  暮るゝ夜は 衛士の焚く火を それと見よ
   室の八嶋も 都ならねば(藤原定家)


本殿にお参りしたが、さすがに下野一宮とされるだけの立派なものであった。



 壬生
思川を渡る


遊歩道として整備されている


大神神社を後にして壬生に向かう。東武宇都宮線のガードをくぐってすぐに思川を渡る。

壬生城跡公園に向かうと、その道は遊歩道のように整備されていた。壬生の町の中に入って行くと、興生寺があった。この寺は大同2年(807)開基と伝えられる古寺で、江戸時代までは壬生城主代々の祈願所だったのだ。でも、私が見たいのは境内にあるカヤの巨木なのだ。元禄15年(1703)に住職によって植樹されたというので、樹齢は300年を超えている。高さは25mほどもあって、私はこうした巨木が大好きなのだ。
堀を渡って公園の中に入ると真中に噴水があって、それを公民館や図書館が取り囲んでいた。そして、きれいな彫像がたくさん並んでいた。私は街や公園にたつ彫刻もかなり好きなのだ。




 鹿沼へ
国道を歩いて行く


金売り吉次の墓


鹿沼市に入った


花が咲く道をひたすら歩く


例幣使街道の石標


国道352号線に出ると、鹿沼まで16kmの道路標識があった。今、13時半なので鹿沼に着くのは順調にいっても18時過ぎになりそうである。
30分ほど歩くと北関東自動車道の高架をくぐる。この辺に金売り吉次の墓があるはずである。曾良の手帳にこのことが書いてあるので、芭蕉も立ち寄ったのではないかと思う。芭蕉はミーハーなところもあって、源義経のファンだったらしいのだ。だから義経ゆかりの吉次の墓にはきっと寄ったと思うのだ。金売り吉次というのは、鞍馬寺の押し込められていた義経(牛若丸)を、奥州藤原氏のもとに案内した人なのだ。
この辺なのだが…と思いながらも、どうしてもそのありかがわからない。ここに住む人に訊いたらセブンイレブンの後ろにあるのだという。すぐにわかった。入り口にはなんの案内もないので、普通は見過ごしてしまう。
吉次の墓は田んぼのなかにぽつんとあって、古く風化してしまった丸い石が二つ重ねた簡単なものだったが、それでも前に供えられた花は新しくきれいであった。
このすぐ先には一里塚があった。
国道をひたすら歩いて、鹿沼市の境界を越えたのは
1515分である。でも、ここから市街中心まではまだ遠いのだ。
左に古墳が見えてきた。判官塚古墳で7世紀前半に造られた前方後円墳である。私は「判官塚」という名前から源義経に関係する塚なのだと思いこんでいたのだが、たんなる古墳で少しがっかりした。
このすぐ先に「北条塚一里塚」があった。江戸から二十五里(約100km)の一里塚である。ついに100kmを越えたのだ。少しうれしくなった。
ちょっとした杉並木を過ぎて、東北自動車道の高架をくぐると左から来る道と合流する。この道が日光例幣使街道で、交差点には古い標石が残っていた。
楡木の集落に入ったのは16時半、道路標識によると鹿沼市街まではまだ7kmもあるのだった。この頃から疲れがひどくなって足も痛くなってきた。
大門宿に入ったのは
18時頃で、もう暗くなってきていた。夜道をトボトボ歩いて行くと鹿沼市街の直前にマクドがあったので、ここで30分ほど休憩することにした。
東武電鉄の新鹿沼駅の前を通過したのは1850分、さてどこにテントを張ろうかと悩んでしまう。街の中には「屋台のまち中央公園」があるのでそこへ行ってみた。でも、テントを張る適当な場所はない。仕方がないので黒川の河川敷に行ってみた。河川敷には遊歩道がつけられていて、ベンチも置かれていたので、ベンチの横にテントを張った。
テントの中に落ち着いたのは20時を過ぎていた。初日から疲れはててしまった。


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